発達障害だったわたしへ

自閉症と虐待サバイバー/光はまだ、こそばゆいけれど……書いて見つめて生きていく/元全国紙記者/半分未練、半分隠居なう

ろくでもない文脈で思い出されるほど悲しいことはない

わたしの母は猛者でした

小さいころからこれまで、友達とかと「みーしぇるのお母さんってどんな人?」と何気なく話題になるたび、わたしは返答に窮したものだ。

なぜなら、わたしの母は、たとえようがないくらいの「猛者」(もさ)だったから。その猛者度を端的に表現するには、この世の言葉では割り切れないくらいの猛者だと認識していた。

世の中に「猛者度選手権」なるものが存在したとして、わたしの母の右に出るものは、正直いないだろうと思っていた。この宇宙の誰かひとりにすら、一生かかったって、その奇天烈さは理解されないだろうと思っていた。

娘への「愛」のためならば、また、娘が成人しても「外敵から全力で娘の身を守るため」と盗聴、盗撮、探偵依頼、タクシーをチャーターしての尾行、郵便物検閲なんてのは当たり前だった。

仕事中で不在の娘のマンションに侵入し、風呂の排水溝の髪の毛の一本一本にいたるまで、ピンセットでチェックするのが日課だった。そこに男性の短髪を見つけるや、白い画用紙に一本一本を丁寧にセロテープで並べて貼り付け、その「作品」を玄関前に貼り付けて、帰宅した娘に恥ずかしい思いをさせる。

「ついに貴女の秘密をママは突き止めました!!貴女のことは、なんでもお見通しなんだから。貴女のことを本当に愛してるのはママだけよ。みぃちゃんmy love、ママのおにんぎょちゃんへ♡」と書かれた書き置きの手紙とともに。

同時に、尾行して突き止めた娘の交際相手に、初めは可愛く取り入るが、次第に相手のやさしさにつけこんで自殺をほのめかし、それも相手にされなくなると「お前らはグルになって罠にかけた」「裏切られた」「ハメられた」などと言いがかりをつけて殺人予告、職場まで押しかけようとして暴れて警察沙汰……。

帰宅すると、夜食に食べようと冷蔵庫に入れていた、イカとマグロのおすしが無残にも壁に投げつけられていたこともあった。

投げつけられて数時間経過していたこともあって、シャリは床に散らばっていたけど、少し干からびたイカとマグロが壁にびよーんと重力によって伸びて張り付いている光景を目にしたときは、いまでも母がどんなメッセージを伝えたかったのかわからないけれど、事情が知らない人が見るだけ見たら、ある意味アートだったかも。

とまあ、ここで言える範囲のレベルにとどめても、母の猛者エピソードは事欠かない。

世の中に母以外の猛者を見つけた安心感と感慨

けれどもです、(このキーワードを出すのはある意味、胸糞悪くなるので一方で心苦しいのだが)松居一代さんの例の「バイアグラ100ml男」動画を見て、わたしは励まされたのだ。

これからは、「みーしぇるのお母さんってどんな人?」という返答に困る悩ましい質問に対して「松居一代みたいな人」って言っておこう、と。親不孝だのと非難されずに、それなら逃げたくなるよね、と話は早い。

松居一代さんの第3弾までアップされたクレイジー動画を見るにつけ、あのいっちゃった目といい、オーバーアクションといい、「とても恐ろしいことが起きたのです……」「これは真実なのです……」ともっともらしい口ぶりで語るのだが、たとえそれが真実だったとしても、行動を起こせば起こすほど自爆していくのに、自分ひとり自覚できてなくてガチで一生懸命なところに、郷愁のような懐かしさすら感じた。

また、世の中に、うちの母みたいな人がいるんだあ、っていう安心感と感慨。かずよも母も、悪い人じゃないし、むしろ誰よりも正直なんだけど、それと「害」になることとはまったく別の問題です。

ろくでもない文脈で思い出されるほど悲しいことはない

で、今回もっとも言いたいことというのがあります。

それは、このようなろくでもない文脈において思い出される親ほど、娘としても悲しいものはないということです。

母娘関係にとどまらず、どんな人間関係においてもだけど、人の時間やエネルギーは有限で、どうしたってその人と濃厚に関わりあえる期間なんて、たかがしれてる。

そんななかで、わたし自身も、かかわった相手が家族であれ、誰であれ、その相手が人生を振り返ったとき、ろくでもない文脈でわたしを思い出されるとしたら、とても悲しい。

だから、その相手といる時間は、相手がどう思うかはコントロールできないけれど、少なくともわたしはわたしのために、悔いのないものにしたいと思っている。

また、相手にそうしてほしいとは求められないので、せめて本人が、母のようにはならないという意志でもって律することでしか、どうしようもないものだとも自覚している。

相手をリリースしてあげるやさしさ

ちょうどわたしはいま、新しい展開に向けて、いろいろ準備をしながら、さよならこんにちわをする日々を過ごしています。

慌ただしい毎日のなかで、過去をときどき振り返りながら、そのときはつらかったわけだけど、自分がろくでもないときに、さっと身を引いてくれた人には、感謝の気持ちを持っている。

逆に、相手がろくでもなくなろうとしているとき、自分がうまくリリース(解放)できなかった関係は、うまくさよならを言えないままこじれ続け、その人のことはいまも、ろくでもない記憶とともに思い出されてしまいます。

引越しのたびに持っていきたくないけど、かといって捨てるに捨てられない、押入れの奥に眠る、どうしようもない開かずの段ボール箱の存在のように。

ただそばにいること、それがよいとされることもあります。

でも、ずっとそばにいたりいられたりするよりも、ときにはリリースしてあげるのが、長期的なやさしさかなと、カビくさい思い出がつまった段ボール箱を整理しながら、だけどなにも捨てられずにまたガムテープで封印してため息をつきながら、ふと思ったりしたのでした。

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