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発達障害だったわたしへ

発達障害じゃだめなの?発達障害で幼いころから感じてきたことを、これからいろいろ綴っていきたいと思います/1982年静岡県浜松市生まれ。2005年、早稲田大学卒業後、読売新聞記者。2014年、地域おこし協力隊兼フリージャーナリストを経て、16年からNHK記者、今年4月退職。著書に「八幡平への恋文」(岩手復興書店)。

そのうち「発達障害」という言葉に飽きていくでしょう

発達障害」が云々という話をすることは、あらゆるポジショントークの一つにすぎなくて、私はとても飽きっぽいので、そのうち飽きると思ってる。

というか、私が24時間365日「私は発達障害」なんて思って生きているかといったら全然ちがって、朝からひどい偏頭痛でソファで横になりながらお菓子食べて、おまけに胃腸も弱いのにコーヒー飲みながらNHKBSでひよっこからの世界のネコ歩き見て一緒に猫とたわむれてるような愛に心があたたまって、それから「2度目の香港」という旅番組見て妄想トリップに連れていってもらったりしていて、とてもじゃないけど、そのポジションにずっとのっかってられるような、立派なお方でもない。

ただ、何かを生み出したくて、そうしている。生み出せれば、なんでもいいのだ。人間も動物も、基本的には子孫を残したいというのが本能で、植物が種をとばしたりするように、人ってなにかを生み出していたいんだなあという気がする。生み出す、というと高尚な感じだけど、ようするに生産する、ということ。お蚕さんが繭を吐き出すように、私は文字を吐き出していたいのだ。

いま、こんなかんじで入院しているし、自分がなにかを生産することは、なにもない。起床時間になれば勝手にBGMが鳴り始めて電気がついて、消灯時間になれば電気が消える。決まった時間に、看護師さんが検温にやってきて、朝昼晩3度の食事が運ばれてきて、うんこして、そこにいる限り、すべてされるがままだ。こんなにされることばかりされていて、されることに飽きて気が狂いそうなのだけど、立派な人は、病気とたたかうことがいまのあなたの仕事なんだからと、励ましてくださる。

一方で、毎朝そうじのおばさんが来て(私は角にモップがいちいちコツコツあたる音やモップの腐ったような臭いが苦手で具合が悪くなってしまうのだけど)部屋をきれいにしてくれる。患者をなごませようと、テーブルに毎日、さりげなく花を活けてくれている誰かがいる。近くの行列のできるラーメン屋さんは、おいしいサンラーター麺を食べさせてくれる。近くのマックカフェの店員さんは、たまにスマイルをくれる。

みんな、自分のなかに「ある」ものを、そうやって生産している(もちろん、人は酸素を吸って二酸化炭素を排出していたり、なにもかも生産活動といってしまえばそうなんだけど、今回は置いておく)。

で、やっと話は発達障害に戻るわけだけど、「発達障害」というのは、ニューロティピカル(定型発達、いわゆるフツーの人)に対しての言葉で、それは、フツーを基準しているから出てくる言葉。障害者にとって、障害がある社会でなければ、障害者なんて言葉はいらないのと似ているかもしれない。

フツーの人にとって「ある」ものが「ない」から、障害とされる。私はこれまで34年間、自分の障害のこととかなにも話す必要性が感じられなかったから、なにも考えずに周りに言わずにきた。でも、たまたま入ったNHKという会社では、言わなければ自分にとって「障害」のレベルだと初めて感じたので、言ったにすぎない面があったんじゃないかなと思う。だから、ここでだめだったから、じゃあもう障害を抱えて生きていこうだとか、障害とともに生きる、だとか、障害の自分を受け入れる、みたいな立派な展開にはたぶんならない。

「自分には障害がある」と言わなければいけない本人にとって、言わなければいけなくなることは、すごい屈辱的なことだ。それは、フツーの人が当たり前に持っていることに対して、その価値観を基準に、自分は「ない」と認めなきゃいけないことだから。そこにはねじれが生じている。

発達障害の人が、フツーの人と同じように自分のなかで「ある」と認めていることを、フツーの人の基準に合わせて「ない」と認めなければいけない、というねじれ。

その屈辱の最たるものが、障害者雇用だと思う。フツーの人の価値基準のなかで「ない」人のために、雇用の場を作ってあげましょうという発想。

冒頭で私は、そのうち発達障害ポジショントークをするのを、きっと飽きてくるでしょうと言ったのは、そういう意味で、少なくともいまは、フツーの人にたいして自分は「ない」といった発想をする必要性が、いい意味でも悪い意味でもされるがままの環境で、ないからだと思う。必要性が薄れれば、そう言うことの意味がなくなるから。

たぶん、どんな人も、自分に「ある」ことを数えていけるようになれば、発達障害という言葉はなくなる、というか必要なくなる。それでも、発達障害について語るごっこがたまにしたくなるというのであれば、それはやっぱりどこかフツーになりたい自分がいて、フツーな人が一番のコンプレックスな私にとって、未練があるからだろう。

もし里に下りる機会を再び得られたとして、これから私が、ほんとうの意味で、「ない」ものより「ある」ものの方が多く数えられるようになったら、私はほんとうの意味で、発達障害について語ることに飽きてしまうでしょう。

発達障害の社畜が柵の外に出ると、本当に飢え死にするぞという話

こうタイトルを打っておいて、「社畜」という言葉は私は好きではありません。ちなみに「発達障害」もね。なんでもかんでも発達障害いうなというのも分かります。ごもっともです。でもなにかを伝えるときに、こういうラベリングすることもときには必要なので、ご承知おきください。

 

さっそく本題ですが、私は10年弱いた新聞社を辞めてしまったことを、ものすごく後悔している。申し訳ないことをたくさんしていた。そんなこと今さら言ってもしょうがないわけだけど、「漂流ステージⅢ」(イマココ)まで来て、その思いが日に日につのってきているのだから、そうなのだ。

 

新聞社やめると申し出たとき、総務の方が言ってくださった言葉が印象的だった。

「みーしぇるさんは、行く先々の部署で、記者としてはなばなしい成果を出してくださいます。でも、成果をあげるごとにバーンアウトして、リカバリーする時間が大変です。そうなったら、会社としては、みーしぇるさんには、記者としてははなばなしい成果は一切求めず、ずっと低空飛行で安定して働いていただくことをのぞみます。うちはリストラをするほかの大企業とちがって、みーしぇるさんを定年までクビにしたりすることは絶対しません。だから、会社からのお願いとして、低空飛行でこれからは働いていってほしい。そのための職場ならいくらでも用意するし、話し合いもする」と。

そのとき私は低空飛行って……と思った。「低空飛行」という言葉に、ものすごく反応したのだ。

このお方は、低空飛行をし続けるということがパイロットにとって、高く飛ぶよりもものすごいエネルギーがいることを分かって言っているのかと。ましてや、これからも人生の中で、半分以上はしめるだろう会社員生活で、定年までクビにしないからといって、なぜ私はこれからはずっと低空で飛んでいなければならないのか。

そのときの私は、自閉症だと言われていても、その世界が普通すぎて、会社から見たら私がどう見えて、どの点がお荷物になっているかまったく分かっていなかった。いまは亡くなってしまっった慶応大の先生からは、自閉症はあなたの病気でもなんでもなくて特質だから、あなたはその名前を知っていようがいまいが関係ない。あなたの世界を大事にすればそれでいいだけのことだと言われていた。

そして宝物のような1冊を薦めてくれた。「自閉症だったわたしへ」という、自閉症の著者ドナ・ウィリアムズという女性自身からから見た世界が、美しい言葉で描かれた本だった。

それをすべて信じていたわけではないけれど、一人の人間として、積極的に低空飛行するような人生を、ましてやそれを会社に言われてすることなんて、憤りしかかんじなかった。

いま振り返れば、定型発達のその人たちから見たら、飼っている羊のなかでもとりわけ足腰も弱い(と彼らにははっきり見えていた)羊さんが柵からで出たら野たれ死ぬのは明らかだからここにいれば安心だよと、何度も言って心配してくれていたし、これからはもうあなたのペースでやればいいからと、そうやって飼い主が言ってあげれば、フツーの家畜としてはホッとするだろうと考えたのだと思う。

だけど、そのときの私にとってはその厚意、心配こそが、「低空飛行」という言葉が、だからやめなきゃいけない、やめよう、柵から出なければ私はだめになってしまう、早くこんな柵からでなければ、自分からここを去らなきゃだめだ、という思いを決定的にしてしまう意味しかもたなかった。

でも「漂流ステージⅢ」のいまになってみて、その言葉がどれだけありがたいことだったかと思う。柵を出てからというもの、嫌なら出てけと追い払われはしても、こんなことを言ってくれる会社も、居場所も、人も、どこひとつないと知った。そういう意味では私の見え方は歪んでいたし、甘えていた。

 

「ステージ1」で北東北の山間部に住み始めたときは、柵の外の空気を初めて吸うって、こういうことなんだなと思った。それから1年半後、村八分になって、お金も底をついたとき、障害者年金と生活保護のセットというのが、漂流貧困者がホームレスにならない王道プランだと、福祉関係者や役場の人たちから申請を強くすすめられた。

だけど私はまだ、自分が漂流している貧困者だなんて、そんな尊敬もできない人たちから言われるのはプライドが許さなかったのだろう。また、柵から出た自分の決断が間違っていなかったんだと証明したい強い思いが残っていたようだ。

元会社同期からも、このままいくとホームレスか練馬の武蔵関の高架下アパートで孤独死だと筋書きは見えているぞと。それはまるでおれたち社畜をばかにしたからそんなふうになるんだぞ、ざまあみろと言われてるようで悔しかった。同時にそれは、それぞれが、それぞれの人生を選択して、「これでよかったんだ」と言い聞かせながら、必死に毎日を生きようとしていた裏返しでもあった。でも、自分もたしかに映画「嫌われ松子の一生」の結末みたいなのが浮かんできているのが否定できなかった。

どうしてこうなっちゃったんだろうと悔しいのと、どいつもこいつも私をばかにするなと、って気持ちとかも原動力になって、私は再び柵に戻る決心をした。ちょっと間違って柵から出ちゃったけど、やっぱりおとなしく柵の中に戻って、飼い主様のために働きますというのがNHKでの「ステージ2」。

だけどそんなちゃっかり柵に戻ってきて、ましてや別の牧場から脱走して迷子になったような足腰の弱い羊が、バリバリ飼い主に染まった頑丈な羊の群れに入っていけるほど、そこは生半可な王国ではなかった。

そしていま、「ステージ」とだけ表現していた頭文字に「漂流」が加わって、「漂流ステージⅢ」。私は、柵の中でも生き延びられなかった、柵の外でも生き延びられなかった。それでだんだん見えてきた自分というものがある。みんなが当たり前のようにできるからといって、自分もできるとは限らないという当たり前のこと。憧れと現実は違うということ。椎名林檎ちゃんの世界は理想でも、現実を生きるにはYUIの歌詞のように等身大の自分を受け入れる勇気が必要なこと。

先日、県立図書館で本を借りるため、カードを作ろうとしたけど、何度もカウンターの女性から「実家はないんですか?」と聞かれ、答えられなかった。入院中で身寄りのない無職は、ホームレス扱いされて、カードすら作れないことを知った。だったら、これからアルバイトかなんかしてお金をためて家を借りても、武蔵関のアパートを借りることすらできないだろう。そもそも地方でアルバイトしても、地方なら余計、実家が知れた身寄りのある不審者よりも、漂流者のほうがよっぽど不審がられるだろう。

なんだかんだいって、漂流者は東京の人混みに紛れているのがいちばんあやしまれなくて楽なんだと思う。だけどもう私は、どの柵の中にも入りたくても入れないことがわかっている。柵というのは、もっと広い意味で、結婚や家族、キャリアアップ、自己実現……そういう社会的に常識とされている価値観とかもろもろ。

これからのことを考えながら、これまでなにかの「柵」に入ることを軸に考えてきたけど、いい加減、こんどのこんどは柵で行きたくても行けないのではないかなという感じがした。目を閉じて「柵」を思い浮かべたとき、これからもずっと漂流し続ける自分がいた。

先日、園内で、デイケアみたいな施設の人たちがゲートボールをしているのをぼーっと見ていた。広い空に、芝生が広がっていて、そこにむつかしいルールはなかった。まだ、想像はつかないけれど、「柵」ではないなにかについて、私はいま、考えている。

精神科病棟で身体拘束をされてみて

いま入院している病院は、ほんと信じてもらえてるんだなあと思う。外出も基本的に自由で、どこに行くかとかましてや何をするかとか、誰かと会うかとか、なにも聞いてこない。広い原っぱで放牧されている牛になっているかんじ。ほかの患者さんも、それぞれのペースで生活してるみたいだ。

そういう意味では、これまでどんだけ信じてもらえなかったのかなあと思う。ちょっと病棟の集団生活のルールに違反しただけで、2日とか3日くらい鎮静させる点滴をされて、手と足の4点をベッドにくくり付けられてしまう。いわゆる身体拘束だ。

ベルトが固すぎて、外せるわけもないのに、もともと閉鎖病棟なうえに、さらにとどめと言わんばかりの、個室の部屋の鍵も外からかけられて、とじ込まれてしまう。きわめつけは、なんといってもおむつだろう。お仕置き感満載だ。

私は、あの4点拘束とおむつの屈辱を経験してから、いろんなことがどうでもよくなった。お年寄りで寝たきりになったり、事情があってとかで、おむつなのはやむをえないことだと思う。

だけど、手と足という全身がしばられて、だからなにかあってもナースコールも押せないし、ベッドにはりつけられてるから寝返りも打てなくて、外側から鍵がかかっているから、自分じゃもうどうすることもできないという無力感がある。

そして、なによりも、鎮静はかかっているけどいやでも意識があるなかで、数日間、そのおむつで自ら排泄物を絞り出すという行為が、どれだけ難しいかということは、やってみた人でないとわからない。

何人かの友人にそのことを話したら笑われて「それ写メないの?」「なんで撮ってないの」とか言われたけど、自分はいまでも笑うに笑えない。

隠れてタバコを吸っていたのがばれて拘束になった女の子は、「おむつだけは屈辱すぎて、意地でおしっこすらがまんしてて、めっちゃキツかった。でもこんど拘束になったときに、今度こそ写メ撮ってってSちゃんにお願いして、個室のガラス越しにピースしたのあるけど見る?」とケラケラ笑ってたけど。

社会的に害になるからと、一律に精神障害者とカテゴライズして狭い場所にぎゅうぎゅうに集めて、人里離れた一つの場所に隔離して、収容所みたいなルールを送らされたら、誰だっておかしくなるし、だから毎日脱走者や殴り合いのけんかや、盗みが絶えなかった。

「これがこの病院のルールですから」と、それにちょっとなんで?と言ったら、すぐ身体拘束で、もうこりごりだと思っても、またなんでというそぶりを見せたら「また拘束されたいの?」と医師から言われる。

ほぼ毎日、病棟のベランダの洗濯干し場に、拘束用のベルトが干してあって、ゆらゆら揺れていた。手首用が細めで、足がちょっと太めで、腰痛用のコルセットみたいな白色の素材だった。それを見ながら、ああ、まただれかが拘束されてたんだなあと思う。

だけど、ところ変われば、ああ、これがほんとうの意味での尊重っていうのかなと思う。どこの病院にも病院憲章のいちばん上に「私たちは患者さんの権利を尊重します」と書いてあるけど、病院に限らずどんなシーンでも、私たちは「尊重」という意味について深く考えることなんて、わかったふりはしておきながらあまりないんじゃないかな。

あそこの病院はよかったのに、ここの病院は悪い、みたいなここは変だよ日本人的な比較の話ではなく、フランクルの「夜と霧」の話じゃないけど、強制収容所での経験があったから、当たり前のことを初めて考えられるようになったりとか、そういう話だと思う。それぞれの中の相対論だから、なかなか社会的なコンセンサスができていきにくい。だから、なにかの権利を勝ち取るということは、長い歴史があるし、むつかしいことなんだとあらためて思う。

まずは相手を信じること。だから私は脱走もしなければ、ライフラインにしがみついて依存症になることもないし、「ここのルールだ」という人と言い合いになることなく、穏やかな時間を過ごしている。

マルセイは精神障害者じゃなくて六花亭のバターサンド

突然ですが、警察の隠語で、精神障害者のことを「マルセイ」と言います。精神障害者の精にマルを囲んで、マルセイです。

 

全国紙の新聞社に入社して配属された横浜支局というところで、まず担当したのが神奈川県警の警察署(サツ)担当だった。いわゆるサツ回りというやつ。

なかでも、横浜市の繁華街・関内を管轄する伊勢佐木警察(通称「ザキ」)なんかは、よく民放で年末になってくると警察24時みたいなドキュメンタリー番組の舞台に、まっさきになるところ。私はすぐそばのラブホ街の、男はヤクザ、女は夜の仕事の人ばかりのマンションに住んでたので、真夜中もサイレンがずっと鳴ってた記憶がある。

新聞記者にとって、横浜支局でサツ回りをするということは、当時は「ハマのサツ回り」なんて特別な言葉があるように、全国47都道府県の支局に配属される記者のなかで、自分は一番優秀なエリートと見込まれていることの、れっきとしたあかしでもあった。

横浜支局に配属された記者たちは、そんな立ち位置をまっさきに自覚して、同期のなかでも選ばれし者というオーラをぷんぷんと匂わせるのが、あるべき姿とされていた。それでこそ、ハマのサツ回りなのだ、と。「横浜出身者が、社会部にあがれなかったら大恥だぞ」とおどされながら、私は警察担当をずっこけたら人生すべて終わるんだと本気で思いながら、新人時代を過ごした。

昼夜関係なく、軽微なものから大きな事件まで警察署から「広報文」という1枚の紙切れが、ファックスされてくる。基本まずは電話をつっこんで、現場に行くのかボツか判断するのだが、そこでひとつの判断基準になっていていまでも印象に残っているのが、冒頭の、マルセイ(精神障害者)かどうかをお約束のように確認するという作業だった。

先輩からいろんなことをオンザジョブで受けるのだが、容疑者について聞くときに必ず「こいつ、前科あるんですかね?」から始まって「マルセイですかね?」「通院歴は」と確認する流れになっていた。

次から次にファックスが来るので、たとえば自動販売機をバールでぶっ壊した人が逮捕されましたみたいな広報文を受け取った先輩から「みーしぇるさん、たぶんマルセイだからいらない(ボツ)と思うけど、一応電話で聞いといて」とあらかじめ言われて渡される。

その先輩も、ドヤ街で酔っ払って人んち入っちゃった男を住居侵入で現行犯逮捕みたいな広報文を見ながら、「またマルセイかなんかですよね?しょうがないやつでよすね(じゃーボツ)」なんてお互いにお疲れ様と分かち合うような世話話風に、電話を置く。

1時間に1度、警戒電話(ケーデン)というのも県内全署に入れるのだが、ちょこまかした事件だと、記者「通院歴は」サツ「ありです」記者「あーじゃあマルセイですよね(じゃ、いっか)」と、お互いほっとしたような感じになって、電話を切る。そこには、まーどうせマルセイのすることだからしょうがないという、「マルセイ」という存在に対する、警察官と記者とで共通したなんらかの認識があったのだと思う。

ただ私は、配属後まもなく、先輩仕込みの警察用語に染まっていくもう一人の同期男子とちがって、百歩譲ってマルセイという言葉だけは、どうしても発することができなかった。やっぱり私のなかで、マルセイはいまも、六花亭のマルセイバターサンドか、フランスの都市・マルセイユか、地中海のマルタ島のような、のんびりとした語感なのだ。

また、「じゃ、お疲れ様です」と電話を切ろうとすると「記者さんもお疲れ様です」なんて警察官が労ってくれたりして、ハマのサツ回り記者は、そうやったささいなやりとりから警察官と信頼関係を地道に築いて一人前になっていくそうなのだが、私が先輩の技を真似すると「テレホンセックス」なんて揶揄されたりした。

私はマルセイという言葉をいちいち言い換えて「その自販機を壊したお方は、精神科に通院なさってたんですか?」「なにか精神をお病みになっていたのでしょうか」とか警察官に質問していた。警察官は、それはそれで、ちゃんと答えてくれて、なんら私は支障がなかったけど、ハマのサツ回り的な士気を乱す存在に、みなからは映っていたようだ。

夜になると、朝刊締め切りである25時くらいまで当直中の署回りをするのだが、夜の警察署には、マルセイさんがたくさん来た。ああ、こういうのをマルセイさんと言うのだなと私は知った。どこに住んでるのかは分からないけど、居酒屋でも相手にされず追っ払われるか何かして、ふらふらしながら、夜も灯がともる警察署に流れ着いて、話を聞いてほしい人たち。2時間でも3時間でも気がすむだけしゃべって、またどこかに消えていく。

これはもう、私が新人だった10年以上も前の、警察の世界にどっぷり浸かった記者の世界の話だけど、いまもそうやって言っているのだろうか。その1年後、新たな新人が入ってきたのだけど、私と同様、いきなりそんな世界の洗礼を受けたショックで、PTSDと診断されて休職してしまった。

PTSD心的外傷後ストレス障害)は、付属池田小事件あたりからマスコミもメジャーにしてきた心の病気のひとつで、もちろん誰もがなりうるものだ。だけど、みんなそれにかかった彼のことをあだ名で病気の頭文字をとって、「P(ぴー)ちゃん」と呼んでいた。私はマルセイに加えて、その言葉も言えなかった。よっぽど心の病が物珍しかったのだろうか。

そんなこといったら、私も通院歴もある、マルセイさんだ。友達と普通に話してると、実は精神科にカウンセリングに通ってて、いま薬これ飲んでて、とかいう話は普通にするんだけどな。

確かに、やっぱり警察署に足が向いちゃうマルセイさんだけを見てると、ちょとステレオタイプなイメージを作りやすくなるのかもしれない。だけど、マルセイ、いや実際の精神障害者は、いろいろいてひとくくりにはできない。

そういえばちょうど、六花亭じゃないけど、セブンイレブンのバターサンドを病室の冷蔵庫に冷やしてるので、そのうちおやつに食べますよ。

退院、なにがめでたい

病気でも治らない病気があることを知ったのは、いつからだろう。幼稚園のもも組さん(年中)のときだった。スクールバスを降りて家に帰って、いつものように「おじいちゃま、ただいま」と言って、祖父の部屋に行ったけど、いつものように祖父は「おかえり」と言ってくれなかった。

脳梗塞の発作だった。上体をばたんと起こしたり倒したりという不可解な運動を繰り返している。私は、祖父のベッドにあがって、おじいちゃま、おじいちゃま、と叫んだ。にもかかわらず私は、倒れてくる祖父の背中になぎ倒されて、痛いのと怖いのとで、泣いた。

 

それから、幼稚園が終わると毎日、祖母と一緒にバスで片道45分くらい揺られて病院にお見舞いにいくのが日課になった。

半年たったある日、祖父が退院する、という話になった。私は退院という漢字が分からなくて「たーいん」と言っていた。ずっと植物状態なのは変わらないのに、私は不思議だった。私は祖母に「たーいんしたら、おじいちゃまよくなるの?」と聞いたけど、亡くなるまでの10年弱、祖母の介護を手伝いながら、いつしか、そういうことなんだなあと理解した。

 

退院しても「おめでとう」ではない世界は、ところかわって、精神科の閉鎖病棟にもあった。売店にいくのも自由な開放病棟よりもにぎやかで患者同士連体感みたいなのがあるようで、旅先で「どこ出身?」というのが無難なあいさつの代わりが、そこでは「何回目?」になる。入院回数のことだが、「私は4回目」なんて話すと、別の人が「今回で、8回目」、また別の人が「9回目」なんて話す。「また来ちゃった」と患者同士で再会を喜ぶことも少なくない。

 

そんな私がこれまで出会った患者の一人に、フジさん(仮名)という当時72歳の女性がいた。なぜ、フジさんのことを思い出したかというと、今日、結婚した友達への寄せ書きを送るにあたって、古いパソコンのフォルダをあさっていたら、暇つぶしに大学ノートに書いてた四コマみたいないたずらがきが見つかって、こんなお隣さんがいたなあ、と懐かしくなった。

 

認知症のフジさんは、目鼻立ちのととのった超美人タイプで、閉鎖だと入浴も2日に1度で、1人15分と短いため、シャワーでなく15分でも湯船につかりたいとの思いで、髪の毛を短髪にしていた。

フジさんは、1日に何度も「初めまして、フジです」と私に自己紹介してきた。そして、私が「初めまして、タカハシです」と言うと、「まあ、タカハシさんっていうの!その同じ苗字、京都の知り合いにいるわ」と繰り返し話す。

 

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でも、フジさんは仲良くなると、ほかの患者や看護師への不満を言い始めるので、看護師も要注意人物とマークされ、ほかの患者からも嫌われていた。新入りの私が、つかまってるのを見て、別のトランプと麻雀をするグループの人たちが、「みーしぇるちゃん、こっちにいらっしゃい」と声をかけられて戸惑った。

フジさんと一緒に食事をすると、「ここの食事、おいしいわよね?」「はい、そうですね」という会話を繰り返さなきゃいけないし、別のグループだと、みーしぇるちゃんは、なにで運ばれてきたの?飛び降り?OD?リスカ?DV?とかとか自殺未遂トークでご飯食べるものめんどくさい。結局わたしは一人、食堂からはなれて、ぼっちめしに落ち着いたわけだけど、この世界でもぼっちで、どこに行っても場所を変えても、自分は変わらないんだなと、インドに自分探しをしに行かなくとも自分を発見できて、妙な安心感をおぼえた。

何日もすぎると私はさすがに、フジさんの1日に何十回もある自己紹介に疲れてきた。「それ前もきいた」と次第に突き放し、私はついに「うるせーよ!」と声を荒げてしまった。

そんなとき看護師さんがやってきて、私に「フジさんはあさって、退院すわよ」と伝えた。一緒に暮らすだんなさんのもとに、帰るのだという。そりゃだんなさんも疲れて預けたくなるわなあと思いながら、少し胸がヒリヒリした。

人が、ユーチューブでラジオ体操しているのを聞きつけると、勝手に便乗して体操をはじめるずうずうしいフジさん。でも、「トイレに行かせてください」と叫んでも看護師さんが見当たらなくて困っていた車椅子のおばあさんの、車椅子をサッとひいて、トイレに連れていってあげたり、やさしいところもあったなあ。

かといって、退院するの?おめでとうでもないし、なにがめでたいというのもあるし、またね、とここでの再会をちかったら、それはお互いよくないことだとみんな知っているから、ここに入った人はみな、入ったときには話すけど、もうすぐ退院だと悟ると、口数が減っていく傾向にある(ちなみになかなか退院できない社会的な人は、「私、来月退院するのよ。いいでしょ?うらやましいでしょ」という妄言を、新しく入ったばかりで絶望してる人に触れてまわってたりしますが)。やっぱりフジさんも、気づいたときにはベッドだけだった。

スポーツはゲートボールだけでもういいと思った

今日は朝から、もったいないくらいの青だけの空で、ちょっと外に出た。近くのデイケアかなにかの施設の人たちが、15人くらいでゲートボールをやっていたのをぼーっと眺めていた。目はそんなによくなかったなとか思った。

参加者たちは、「8」という旗が立ってる穴に、一人ずつ順番に作業療法士みたいな人から「どうぞー」と言われながら、ボールを転がして入れてた。さほど難しそうじゃないような距離に見えても、なかなか入らないものらしく、でも「おっ」とか「おしい」とかいって作業療法士みたいな人が盛り上げてた。

すぐに時間になったからか、私が眺めてたからかわからないけど、終わりまーすとかそういう合図もなく、参加者たちは三々五々、施設にまた戻っていった。参加者の一人から、遠くから、「どうもー」と笑顔で声をかけられたけど、私はぼーっとしてたからぼーっと見てた。

たぶんありえないけど、世の中のスポーツがゲートボールだけだったら、幸せだったのかなと思ったりした。似たようなゴルフはどんどん高機能なウエアがギアが出てきてみえのはりあいになりそうだし、社交とかゴルフ以外の要素がからんできていて、ゴルフのルールだけでも大変なのに、自分じゃ手に負えそうもない。

スポーツのことはよく分からないけど、そういうめんどくさいのをすべてとっぱらって、普段着でもパジャマでもよくて、手に持つものを木のハンマーみたいなものに変えて、お金もかからないのがゴルフとゲートボールとのちがいなのかなと思ったり。だとしたら、自分はゲートボールで全然十分だと思った。

ドッジボールは、誰でも簡単にできると思われてしまいそうだけど、悪意がないのに私はボールを他人からぶつけられると悲しくなってしまうのでよくなかった。それに、小学校低学年までのときは、自分だけを狙ったように集中的に何度もみんなボールをぶつけてきて純粋に痛かったし、どうして痛い思いをするのにみんなぶつけて喜んだり勝った負けた言ってるのがわからなかったし、高学年になるとドッジボールなのに、一人だけあえてみんな私にボールをぶつけなくして内野に残ってしまうので、でも誰も何も言ってくれないから、どういう顔や態度で、内野に残ってたらいいか、内野にいる時間が長く感じられて、早く終わらないかなと思った。

おにごっこも、逃げても鬼が追いかけてこなくなった小学校6年生のとき、一人相撲の虚しい味というのをおぼえた。

相撲は、右と左が分からない人がいるように、私は白星と黒星が、それだけならまだいいんだけど、日本相撲協会のホームページの結果発表で、黒地に白で浮かべられたり、白地で黒にされたりするともうわけがわからなかった。なにより、永谷園のお茶漬けは大好きなのに、相撲という番組がこわかった。テレビをつけると、でっかい裸の男の人がたくさんいて、それに座布団を投げたり楽しそうにしている人たちの集団が、そういうことをするにいたる意味が分からなくて、こわかった。

なによりも、そのでっかい裸の男の人たちの顔が、一人たりとも区別がつかないのがこわかった。顔の区別がつかない人がたくさんいることに。

NHKにいたとき、泊まりのたびに、郷土力士の相撲の結果の原稿を書かなければいけない仕事があった。フロアでは、県内ではトップの力士の取り組みが始まると、「あ、始まった」とざわめく。その様子を見ると、みんな顔のちがいがわかるんだなと気付いたわけだ。あと、どっちかが(私にはどっちがどっちかわからないんだけど)、「あ、勝った!」とか「おお!」とかいきなり叫ぶ人たちが、奇声のように聞こえてとてもこわくてびくっとして、それでなにかがおこったんだなということを知った。「さっき見てたのになんで勝ち負けが逆になっているのか。わけがわからない」と原稿の間違いを注意されても、答えられず、「なぜ説明できないのか。それでは対処のしようがないじゃないか」と言われたが、なぜならみんな同じ顔に見えてわからないですとまじにいってしまったら、この人だったらどう怒り出すかわかりすぎて言えなかった。

バスケットボールは、ボールをパスされると、どうしていいかわからなくなって、受け取った瞬間、同じ場所でいつも足を左右に小刻みに高速で行進してしまう。それで、トラベリング、と担任の先生から笛を吹かれるのだけど、それが3歩でもなくて、同じ場所で15歩くらいやってしまう。やったら笑われるから恥ずかしいとわかっていて、今度こそやらないようにしようと思うのに、やってしまう。次第に、いっそボールを誰からも受け取らないようにして自分を守ろうと試みてみたが、金魚のフンみたいになって、それはそれで体育の授業の時間が過ぎるのが苦痛だった。その、私のトラベリングのモノマネは、高校を卒業するまで、小学校時代からの女子に、ことあるごとにネタにされた。

ダンスは、手と足がちがう動きができなくて、幼稚園のときのお遊戯会のためにいつも居残り特訓を先生とマンツーマンでさせられたけど、当日も一人だけ舞台上でみんなとちがうどこかに行ってしまったので、母に「恥をかかされた」と激怒され、お遊戯会場に一人放置された。母はほんとに車にのって、家に帰ってしまった。大人にとって、放置プレイとか冗談半分で言う人がいるけど、自分にとって放置はしゃれにならない行為なので、そういうプレイは好きではない。

とまあいろいろ書いて、わかっていることだけど、私は自分の世界からみたことを、自分の言葉でしか語れないし、考えられない。他人目線とか、他人に寄り添うということが本当の意味でわからない。他人目線といいながら、他人からどう見られるかという自分しか見ていない。

たとえば私は、よしもとばななさんの小説というか世界が好きだけど、私は、よしもとばななさんの小説が好きだと言いあっている人たちの世界がわからなくてきもちわるい。ばななさんの世界はばななさんの世界で、ばななさんの世界があるなあと思うだけで、ばななさんの世界がただそこにあるのみで、それ以上、誰も立ち入れないし、ましてや他人同士が交われるはずがない世界だと思うから。でも、ばななさんは、私が楽しいと感じる文章を届けてくれる。ばななさん、いつもありがとう。

中学はお受験して国立大付属にはいって、進学高からの早稲田大学にはいって、入社試験とかもするする受かってきて、それだけ見ると、お勉強ができると思っている人は本当に私のことをそう思っているけれど、私は本当に本当に、お勉強というものができない。正確にいうと、これを勉強したいというものにたいしてはできるけど、与えられたものを勉強しろというのができない。勉強ぎらいなのではなくて、本当にお勉強というもののやり方がわからないし、こうやれということそのものがわからない。

高3の夏に受けたベネッセの大学センター試験模試も、特に国語は現代文の漢文も古文もさっぱりわからなくて全部当てずっぽうになって、200点満点で何点かは忘れたけど、偏差値28だったのは覚えてる。偏差値は80とかになるのもすごいけど、28もなかなか出ない数字。あと、現代文は読めないのに、新聞の読み方は知っているから、新聞は読めたり、でも体調が悪いと読めなくなったり。

私は、最近やっと気付いたのだけど、人とインプットの仕方がちがうようで、人は入ってきた情報をそのままインプットするらしいのだが、私の場合はかならず自分のインプット方法で、あるときには変な図表を脳内に組み立てたりとか、そういう脳内変換の時間や書き換え作業が必要でタイムラグがあるのが当たり前だと思っていたが、普通の人はそのタイムラグがないというのを、もっとも情報処理が早い人たちのあつまりであるテレビ局の記者と一緒に仕事をしていて初めて感じた。

新聞社にいたときは、そういうあんた情報処理機械か、みたいな人は半分くらいはいたかもしれないけど、残りは自分みたいなオリジナルなインプット方をする感じの人だったりなので、別に自分は特にとろい分類にされるなんてこと思ってもみなかった。どんなやり方だって、最後に同じ場所にたどりつきゃそれでいいじゃんと思っていた。でも最近、会社によっては、情報処理機械みたいに動く人のことを「デキる人」というらしく、そういうデキる人を大部分の人が目指していると知った。そして、その会社では、「デキる」のは当たり前の条件で、「ハイパーデキる人」というのにならないと頭一つ出られないんだという、デキる人ならではの悩みがあるということを知った。

ということは、そうやって「あの人はデキる人」と言っているデキない人は、私のことをきっと自分以上に「デキない人」と思って見ているんだなあという他人の視点を推測した。でも、これだけは確かなのは、デキる人は自分のことをデキるとは言わないということ。

発達障害でNHK記者をクビになった私が思う、NHKの「発達障害プロジェクト」

上司「障害者だから記者の仕事はムリ」私「ちょっ……」

 

NHK秋田放送局の上司から、発達障害であることを理由に契約の終了を言い渡されたのは、今年2月のことでした。

会議室に呼び出され、「これからもこの仕事を続けていきたいですか?」と聞かれ、私は「もちろん、続けていきたいです」と答えました。

だけど上司からは、要点をかいつまむと「障害をかかえながら、記者の仕事は担えないと考える。よって契約更新はなしです、以上です」てなかんじで伝えて去られ、その判断はその後、何度もの話し合いの場を重ねても、覆ることはありませんでした。1年にも満たない、あっけないNHKでの仕事、なんだったのかなあと思いつつ、先月末、私は自ら退職願を出し、その日に受理されました。

 

発達障害を打ち明けたがために…… 

雇い止めのきっかけは、昨年9月、直属の上司に、社員と同一労働を当たり前のように強いられながらのオーバーワークな勤務体制について相談をしたものの、関係が悪化し、その後、いろいろと追い詰められた末に、発達障害であることなど自分のすべてをもう洗いざらいなんでも会社に話さざるをえないところにまでいってしまって問題が拡大してしてしまったところに、端を発していると私は解釈しています。

 

私は、10年弱の読売新聞の記者、フリーのジャーナリストなどを経て、昨年4月から「地域型雇用記者」という形態の契約社員として、NHK秋田放送局管内にある横手報道室というところで働き始めました。

報道室、といってもおそらく多くの人が想像するのとはちがう、木造アパートの1室が拠点です。

駐在のようなイメージでしょうか。カバー範囲の県南地域を、おそらく全国どこの報道室記者も一緒でしょうが、取材だけでなく、カメラと三脚を自ら持って映像を撮って伝送して、という作業を、1人で行います。

報道室、といっても他社のように支局長と複数の記者がいるわけでもなく、すべて一人で担います。

 

誰か身近に相談できる人が作れたら神

もし、誰か一人でも腹を割って相談できる人が社内にいれば、発達障害のことまで会社に話さずに、うまく切り抜けられてきたかもしれない。これまでうまく、かいくぐってこられたように。

 でも、秋田局の記者は、私以外はみんな社員で立場や境遇もちがうということもあって、また、駐在という物理的に離れている環境であることもあって、正直ずっと孤立していて、きつかった。

 

私が24時間365日緊急対応に震えて、オーバーワークで横手でも孤立して一人でひーひー言いながら抱えている悩みにたいして、

彼らも彼らで大変だろうけど、同一の労働内容っても残業代や休日手当や超過勤務手当なにもかもがちがうし、労組や会社にも守られていて、彼らの関心事が、どうNHKという大きな組織でうまく立ち回るかといったことや、長い会社員人生でどうキャリアを築いていくかということが中心だったなかで、悩みや達成感や目標を共有する関係になるハードルは厳しかった、というかそれができたら神になれてる。

私も読売新聞という大企業にいたから、オーバーワークひとつとっても、正社員と契約とで受け止め方や悩みの性質もちがうことはよくわかっていたし、余裕がない職場だとほんと余裕がなくて、自分を守ることで精一杯になって、気付いたら、職場のメンバーが1人やめ、2人やめ、みたいに黙って退場というのが連鎖していくかんじというのは、今回が初めてではなかった。立場的に弱い人からそういうときはしわ寄せが出てくるものだ。

正直、あのときの環境で、メンタルを病まずに、地域とも、社内でもうまく立ち回れる人たいるとしたら、ハイパーコミュ能力のある人か地域の政治家を目指すかしたい人かだと、発達障害ながらも、私は思ってる。

 

あーもう苦しすぎるわけわかんない全部言っちゃえ(錯乱)

 

でも、これまで発達障害でありながら、発達障害であると言えない、どうせ見た目でも誰も信じてもらえないし……そんなうしろめたさが、自分への肯定力を大幅に下げていたのは事実だ。もっと自分をフラットに受け止められていたら、これからの人生、毅然として立ち向かうべきものには毅然として立ち向かえるのではないかという思いで、私は上司に、自分のすべてを打ち明けることにした。これで拒絶されたらしょうがない、ご縁がなかったんだという覚悟で。

それは、発達障害の自分にとって不自由だと感じることが、職場で顕在化はしていないものの、発達障害であってもなくても同じように困っている人や組織全体のためになることもあるのではないかと信じていたからであるし、もうここまで来てしまったら、洗いざらい話して、そのうえで、働き方について話し合ったほうが、建設的だとも感じたからだ。

もちろん上司は、私の話を聞く姿勢を示してくれていたし、「タテマエ抜きで本音でいきましょう」と言われ、私は安心しきってしまった。

だけどこれが、言葉のまま信じてはいけないことを、発達障害の私はやっぱり、気づくことができなかった。そういうところが、定型発達の人との致命的なちがいで、しくじってしまうのだ。

入院してます

このままだと無断欠勤になるけどいいんですかとか言われたりしてるうちにパニ障になって、秋田市内の精神病院に入院して、1ヶ月が過ぎた。体調の波は激しいけど、ADHDで飽きっぽくもあるので、数日前から、ここにブログを始めた。

 

初めは、タイトルが「みーしぇるさん(私のハンドルネーム)は隠居がしたい」だの「21世紀の楽しい精神障害者」などと変遷して、これまでの入院生活で書きためていたものや、そのとき手が暇で書きなぐったりしたものを、6本ばかりアップしてみた。

 

でも、書きながら、私はこんなものをここで書いてどうなるのかなと思ったり、本当に隠居したいと思ってんのかよと自分でつっこんだりもしたけれど、なによりも、自分のことを書くうえで、社名や場所を伏せて回りくどく回りくどくしていることが、ブログというインスタントな媒体では馴染みが悪いなーとか思ったりした。かといって別に、そこ(自分のいた場所、肩書き)を強調したいわけでもなかったので、困ったところだった。

 

NHKの「発達障害プロジェクト」

 

だけど、このページ、NHKの「発達障害プロジェクト」が始動したということを伝えるページをツイッターでたまたま見て、私はこれまでのすべての考えを変えた。

 

www1.nhk.or.jp

 

NHKとは、本当に思ってもみなかったけど、たった1年足らずのご縁になってしまって残念な限りだけど、ついこの間まで、私はここの一人として働いていた。それはまぎれもない事実。

 

NHKにも障害者雇用という採用枠があって、障害者が普通に働いて番組を作っていたりする。そして、プロジェクトの動画を見てみると、発達障害について、従来的な切り口からでなく、定型発達者側(いわゆるフツーの人の側)からのアプローチもするもようで、新しく興味深く映った。

 

そのNHK内でも発達障害者が無理解に追い込まれている現実を知ってほしい 

同時に、強く感じたこと。それは、そんな時代の最先端をいく公共放送内ですら、「発達障害だから辞めてください」と無理解な上司から言われ、ある日突然、職場から姿を消さなければいけなくなった発達障害の人間が存在しているという事実。いまじゃ、もうなかったかのように葬り去られて。そんなことを伝える仕事が本来、記者の仕事じゃなかったのか、という、やりたくてできないもどかしさ。

 

これまで私にとって、これまで自分がどんな肩書きでどこにいて、なにをして、ということは本当にどうでもいいことだった。というか、どうでもいいことにしないといまの自分が守れないから。だからこのブログでは、「みーしぇるさん」が楽しい日常や、日々思ったことをつらつらと書いていくのかなあと思った。

 

だけど、今はちょっとちがう。

 

発達障害だとなんでだめなの?

発達障害だからだめなの?発達障害だから、記者の仕事はできないの?本当にこれがこういうことをやってる会社でまかりとおっていい話だったの?

 

一度は、もうこの話は忘れようと思って、きれいさっぱり忘れたつもりでいた。もう一生思い出さず、どうせ発達障害なんだし、こんなふうに発達障害が云々言われてもう傷つきたくもないし、疲弊して目の下にクマ作った顔で罵倒されたりねちねち言われてパニ障になるとこを人に見られたくないし、どうしてみんなができてることができないのよと責められたり、そう言われないために陰でこそこそ人の何倍も夜なべして準備して、全然疲れてません、みたくなにくわぬクールさを装いながら、トイレで隠れて嗚咽やらお薬のんで本当は朦朧でいまにも倒れそうで泣きたくて誰かに助けを求めたいけどそんな人はいなくて強がるしかなくて、人としておかしいような生活なんてもうごめんで、穏やかに生きられればそれでいい、と自分を何度も何度も納得させた。

 

「障害を理由に雇い止めをすることはあっていいのか」という私の問いにも、NHKは私に何一つ答えてくれなかった。(後日、「障害だけが理由だと伝えたつもりはない」という訂正のような釈明を本社から受けたが、誰が聞いてもそう聞き取れるものをどうしてそう解釈できたのか知りたいところだったが、すべてが「守秘義務」を理由にうやむやにされて終わった)。

もちろん雇用者側には雇用者側で言い分があるのは当然だし、だから一方的にひどいということを言いたいのではない。ここで伝えたいのは、ここまで発達障害における最先端の番組を作って、障害者雇用を行っている大企業の内部においては、フツーにある事実であるということ。それが現実だということ。

発達障害じゃなくても、どんな障害であってもなくても、なんでもいい。誰もが生きずらさを多かれ少なかれ感じながら、それぞれの枠組みのなかで生きている。それが、たとえば発達障害の場合だと、定型発達の人がなんとも思わないことでも、その壁が高くて、なにも声を上げずに社会から退場してしまう。そのほうが楽なのだ。傷つきたくないからだ。

 

発達障害だから社会から退場しなきゃいけないの? 

だけど、そうやってゆるやかにドロップアウトしながら、うまく(見えるけど本人は擦り切れて限界)かいくぐれてきたけど、それって違うんじゃないかなという思いがして、すべてを打ち明けようと、その扉を開いたわけだ。だけど、こんなふうに誤解が誤解を生んで、仕事ができないくらいに会社ともつれてしまって、あげくにメンタルを病んで入院して働けなくなってしまうくらいなら、やっぱなにもせずに理不尽なことを聞く奴隷でい続けたほうがましだったのかな?いや、そんなことはない。私は私の魂を守り切った。ってそうやって、言いたい、よ!?

 

「みーしぇるさんは隠居がしたい」なんてそんな呑気なことを私はぶっこいてこれから生きていていいのか。誰だって、自分が誰かの役に立つことが、どんな小さなことでも、役に立てばうれしい、という気持ちを持っていると思う。そんな一人一人の尊い心を、誰が奪えるだろうか。

 

私も「発達障害」を変える力になりたい 

だから私も私の中で「発達障害プロジェクト」を始めようと思います。私のプロジェクトは、さっきも言ったけど、これを打ち出したNHKでも、ある地方支局で発達障害が原因で、職場を去った人間がいるということをみんなにもっと知ってほしいということです。

 

トラブルのあった直属の上司と、その上の一部が知っているだけで、職場の誰一人が、私がなぜ、黙って突然、職場を去ったのか、地域の人や取材先にしろ、誰一人に知られないまま、私はいま、精神病院に息をひそめて暮らしていて、社会から退場している、という状態にあります。誰にもなにも発達障害であることも打ち明けられずに、なんで消えたんだろう、とすら思われてもいないまま、姿を消してしまった人がここにいます。

 

私は生まれつきというよりも、子供時代、同じように障害をかかえ病気で、社会からドロップアウトし孤立した母親からの密室の虐待を、地域の人や学校や大人に気づかれないまま(今思えば共犯関係)受け続け、自分だけで自分を守っていかなければいけない環境に長くさらされてきました。同時に、母子関係は幼いころから逆転していて、何もできない母の、世話や尻拭いや支援をしてきました。

20代の半ば、そうした後遺症で自閉症と診断され、その後、いろんな方の助けや迷惑もかけながら母とは絶縁。昨年夏に、国から障害者認定も受ました。今思えば、絶縁しなきゃいけない母になるくらいにエスカレートさせてしまったのは自分にも原因があると思います。でも、人はそのときできることしか、できません。だから、いまは、これでいい、と思っています。

 

発達障害で自分が嫌いにならないでほしい

どうか、娘に虐待をすることでしか愛情を表現できなかった不器用な母や、自分は発達障害だから仕方がないんだと泣き寝入りしながら、社会から姿を消してしまう人が、これ以上、増えませんように。

 

自閉症アスペルガーが、一人の世界に生きているなんて思われていても、一人だけで生きていくなんてことはありません。私がいまここで生きていられるのも、この世界で出会ったたくさんの人間だけではない、目には見えないものを含めてご縁がめぐりあわさって存在しているのだと思います。

自閉症だから見える世界のあれこれ、これまで私が幼いころから感じてきた悲しい誤解や希望、いろんなことをこれから綴っていきたいと思います。