発達障害だったわたしへ

自閉症と虐待サバイバー/光はまだ、こそばゆいけれど……書いて見つめて生きていく/元全国紙記者/半分未練、半分隠居なう

歌舞伎役者の妻さんといちご大福のこと

前進する日もしない日も

毎朝9時過ぎになると、夜勤から引き継ぎを受けた日勤の看護師さんが、「検温」(けんおん)というのをしに病室にやってきます。その名のとおり体温や血圧などを計りながら、いまの体調だったり心の具合だったりを、ことこまかに聞きながら患者さんを回っていきます。

わたしは、そんな「検温」がきらいじゃありません。ああ、きょうは細かいことにうるさい看護師さんでゆううつな1日になりそうだなあなんて、プチがっかりする日もあるといえばあります。

けれども、そのときその瞬間の体調をノーシナリオでやりとりするのは、セッションみたいなライブ感があって好きです。前進する日もしない日も、そういう好きさは揺らがない。

入院して2ヶ月がたったわけですが、じつはわたし、いろんな紆余曲折をへながらですが、ここ2週間くらいで、新たな展開に向けて動き始めるフェーズへと入ってきています。

といっても「進学」「結婚」「転職」「離婚」「左遷」みたいな「Yes」「No」どちらでもないようなたぐいのことであり、ただ、新たな展開に向けて進んでいるという事実がそこにあるのみといったかんじです。

そんな状況のなかで迎えた昨日のセッションは、あまりイケていなかった。

一番の原因はなにかというと、やりとりのなかで、「新生活への不安と期待はどちらが大きいですか?」というピントはずれなボールを、看護師さんに投げさせてしまったということです。

わたしが「新生活」なんていう心はずむようなニュアンスを持つ言葉をチョイスしてしまったばかりに、気の利いた看護師さんは、そんな気遣う質問をしてくれたんだと、わたしは解釈しました。

だけどわたしは、その質問をされた瞬間、不安も期待もへったくれもないあのときあの瞬間の地蔵のような心を、どうしても看護師さんに開くことができなくなってしまったのです。

それからなんとなく気まずく、もやもやしながらイラっとした気持ちが、しばらくのあいだ続きました。だけど、あるどこかで聞いたことがあるようなひとつの気づきが、わたしの心を楽にしてくれました。

ざっくりと言ってしまえば、他人が「新生活」という言葉に、甘いチョコレートコーティング加工をしてこようがしまいが、自分とはまったく関係ないところにあるということです。

いちごはいちご

というのも、ここ数日、ある歌舞伎役者さんの妻が亡くなったことで、その事実をチョコレートコーティングしたような甘ーい記事を、わたしは遠くからぼーっと眺めていました。

いちご大福に言いかえてもいいかもしれない。もっとも彼女の存在そのものと向き合わなきゃいけない家族が、「アイシテル」という最期の言葉でもって、彼女という「いちご」を、クリームとあんこと大福とで包んでしまいました。

それを見聞きした周囲は、いちご大福にさらにお砂糖をまぶしたりキャラメルソースをデコったりして、さらに甘くして彼女のことを語り始めました。その気持ち悪さといったらありませんでした。

2度とほんものの「いちご」と出会えないように、家族みずからが封じ込めてしまったかのような、なんともいえないかんじもおぼえました。

もっとも、あまりにも受け止めがたいつらい現実だから、そうした“愛”こそ“正義”なんだと、家族が「選択」して「決定」したうえでのことならば、誰が否定できよう。

いずれにしても、いちごはいちご。それだけは揺らぐことはないとわたしは信じることにしました。闘った当事者でなければ見えない苦味や酸味、雑味、そんななかから生まれるコクやうまみは、いちごがいちごの中でしか見い出し得ないことです。

どんないちごも、まだ見ぬ世界に旅立つのは不安です。だから余計、他人によって甘いいちご大福にされてしまうことに、強い不安や抵抗を示してしまったりするんだと思います。

いちごとして選択する大切さ

だけど、たとえどんなに甘くくるまれてしまっている感があってもなくても、どっちでもいいんだけど、あの瞬間、自分が甘くくるまれるという「選択をした」のならば、それはほんものの「愛」なんだとも思うわけであります。

そんなことを勝手に思ってみたわけですが、わたしも(?)“いちご”として、くるまれたものを憎もうが受け入れようがどっちでもいいんだけど、いちごとして「選択をした」と意識していくことを大切にしていこうと、改めて心に刻みました。

そんなふうに思ったら、昨日のセッションの失敗なんて、ちっぽけなことだなって思いました。いちごにまつわるお話は以上になります。ご静聴ありがとうございました。

 

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無印の「不揃いホワイトチョコかけいちご 50g」

わたしにとって「書く」ということとブレンドコーヒー

 

あこがれの背中を追いかけていたかった頃

わたしは、お金持ちよりも、うまい文章がかける人というのに、すごくあこがれます。

小説家とよばれる方の、その言葉や切り取る場面のチョイスひとつとっても、どこか文化的、文学的な香りをはなつ文章に出くわすと、もしもピアノが弾けたなら……みたいなうっとりとした気持ちにさせられますね。

また、5・7・5のたった17音に、その人の感性がぎゅっとつまっているのを目にした日には、わたしはツイッターという140文字の吟遊詩人まがいの遊びをたまにするのですが、うんこみたいな無駄な言葉を投げてすっきりしている自分の胸に、思わず手をあてたくなってしまいます。

わたしは全国紙の新聞社に10年弱勤めたことがあるのですが、新聞記者を目指したのは、早稲田大学に入ってジャーナリズムを専攻するくらい、超まじめで意識高い系ゆえの強い情熱もあったんでしょうけど、もっとも大きかったのは、あこがれる文章を書ける「人」そのものへのあこがれだったと、振り返ってみて思います。

新聞社にいたころ、よく就職活動中の大学生や取材先から「どうして新聞記者を目指されるようになったんですか?きっかけはなんだったんですか?」と面接官のような質問をされることが多かったのですが、あまりぴんとこなかった。

面接に受かるためのパーフェクトな志望動機ストーリーなら、意識高い系だったゆえにその手のものはいくらでもひねりだせたわけだけど、突き詰めればわたしにとっては、その新聞社に、その「人」がいる。だからわたしはその「人」の近くで、その人の背中を追いかけたい、というとても純粋で、しかしこれを誰かに言ったらおしまいな、じつにエゴイスティックな欲望であることを理解していた。

「うまい」はどこにも存在しなかった

13年間というわずかな期間ではありましたが、記者の仕事をしたり、編集にもかかわったりしたので、それなりにたくさんの原稿を書いてきたし、人の書いた原稿も読んできたりしたほうかとは思います。

そのなかでわたしが井の中の蛙であることに気づいたのは、自分のように文章というのにさほどこだわりを持っていなくても、新聞記者をやってる人も少なくないということでした。取材は全然苦じゃないのに、書くのは大嫌いだという意外な記者もいました。

記者であればやはり、現場の最前線に立っていることにもっとも使命感が駆り立たれるという人、社会的影響力のある仕事だからこそという人、名刺一枚で総理大臣からホームレスまで会える仕事が魅力だという人、読者からの反響が大きかったとき達成感を感じるからという人もいます。出世というダイナミズムにモチベーションを発揮される人もいます。

それからわたしは、某公共放送の記者を経験する機会もあったのですが、もっともカルチャーショックだったのは、テレビ報道の世界では、一文字一文字への重みのへったくれは、「迅速な情報処理能力」に比べたら、比重的にはないに等しい存在だとわたしには感じられました。

元解説委員の池上彰さんをロールモデルにしているのかは定かではありませんが、テレビの記者たちは「わかりやすーく」伝える存在になることに、特にしのぎを削っているように、わたしには映りました。それは発信者として、とてもいい勉強になりました。

同時に、「わかりやすい存在」になるということは、視聴者にとって言葉どおり分かりやすく伝える行為だけにとどまらず、人間的にも「親しみやすさ」をも同時にそなえていなければなりません。そこらへんの自己像をトータルで律することにかけての彼らのエキセントリックぶりは、わずかでもそこにいた自分が言うのもおかしいけれど、彼らは記者であること以上にプロフェッショナルでした。

そんな彼らたちにとってわたしは、公私ともに常にボロをまきちらしながら歩いているようなしまりのない存在に、さぞ見えていたんだろうなあ、なんていう新たな視点を得ることができました。

ようするに、ところ変われば、誰がデキる人で、デキない人かなんて変わっていくし、重きを置く価値も変わっていくということです。そんなこんなな13年間を記者として過ごしながら、当初もっていた「うまい」文章へのあこがれや、こだわりなんていうものは、はじめから存在しているようでしていないものだと思うようになっていったのです。

だからわたしは書いていく

なんでそんなことを書こうかと思ったかというと、前回このブログに、「このハゲーーーーーー!」で秘書を暴行して話題になった豊田議員が、かつて狂ってたときの自分そっくりだったということを書いた(浅瀬でさえわめきながら溺れる人間……それはわたし自身だった - 発達障害だったわたしへ)ところ、当時のわたしを知るある人から電話がかかってきたんです。その声の主は、かつてわたしが追いかけていた「あこがれの背中の人」のひとりでした。

「たまたま別の検索してたら、このブログがひっかかってきて」なんていう水臭い、どうせわたしのことをネットストーキングかなんかしてたんでしょってことばればれな久しぶりのあいさつがてら、次のような感想を伝えられました。

「自分はあのときの君を知っているから、君の言わんとすることがわかるけど、客観性を伝える文章としては、まだまだ言葉が足りないね」

声の主が言いたいことをかいつまむと、正直、眠かったのとよくわからなかったのとで途中で寝落ちてしまったのですが、豊田議員の反社会性的な部分にも、もっと分析と言及が必要だったね、みたいなむにゃむにゃ……(ちがってたらごめんなさい)。

いずれにしても翌朝、目覚めて思ったんです。だからわたしは書いていこうと。きっといまここに抽出されている文字も、深煎りしすぎて焼け焦げちゃったような「あこがれの背中の人」たちとの直接的、間接的な出会いや、そうでもない人からの雑味などなどから配合された、わたしというブレンドコーヒーのフィルターから、滴ってきているんだと思います。それは、苦味と酸味のバランスが悪くて、とんちんかんなくらいおいしくない味をしたコーヒーなのかもしれません。

だけど、まずい原因を即座に分析して、その検証結果とともに再発防止策を公に向けて発表したり、お客さんからコロンビアをもう少し多めにしてと言われて、お客さんのニーズにあわせたりするような「親しみやすい」コーヒー屋さんに、わたしはなりたいわけではありませんでした。同時に、なろうともしてみたけど、かえって余計、親しまれなくなってしまいました。

自分でも、分からないから書いていく。そこでもやが晴れたように、自己啓発本のような爽やかな酸味でもって誰かを短時間ですっきりともさせないかもしれません。ですが、少なくとも自分にとっては、分からなくて書く前よりかは、いくぶんかはましに分かるようになるという価値を持っています。

分かりやすく伝えるためだったら、わたしは書きません。その前に、わたしは分からないわけだし、分かりやすく伝えることにたけた人は、しかるべき場所にすでに集まっていて、その人たちはその人たちでがんばっています。

それでも、おいしいコーヒーへのあこがれは続いていきます。分かりやすくなくて、親しみやすくはないけど、でも飲みごたえがあるコーヒーの味を知りたくて、でもその味がまだ分からないから、書いていきたいと思っています。

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 やっぱこれ好き

浅瀬でさえわめきながら溺れる人間……それはわたし自身だった

昨夜、ツイッターを眺めてたら、自民党の女性代議士(42)が秘書に浴びせたとされる「絶叫暴言」「暴行傷害」の生音声があがってきて、どんなもんかなと思って聞いてみたんです。

www.youtube.com

思ったよりすごかった、という率直な感想もさることながら、聞きながら、どこかとても心当たりのあるかんじをおぼえてしまったんですね。なんなんだろう、このかんじ。うーん……って思ってたら、これ、溺れていたとき真っ只中の、かつての自分だ、って気づいたんです。

そんなことをつぶやいたら、フォロワーの数が突然ガクンと減りました。かれこれツイッター歴7年、ふだん、朝起きたらひっそりフォロワーが減っているという分には、さほど気にはならないんです。

だけど、なにかをつぶやいた瞬間にガクンと減るのって、仮にそれがどうでもいいことだとしても、木綿豆腐くらいのメンタルは持ち合わせていたって、まあこたえるものがありました。

フォロワーは、一部の友人をのぞいて、ほとんどが面識もない人たちだというのに。まあ、ツイッターをやっている人ならあるあるなお話です。

なぜそんなエピソードを書いたかというと、そうやってわたしはあのとき溺れて手足をじたばたさせながら、フォロワーではなくて、リアルなたくさんの身近な人や大切な人との信頼関係を失ったなあということを思い出したからです。

もちろんその前に、言っておかなきゃいけないことがあります。(この新潮さんの記事のとおりだとしたらですが)仮に、この「凶暴代議士」さんが病気だったとしても、だれかに身体的にも精神的にも傷を負わすということは、あってはならないということです。

だからわたしは、こんなこと思い出すのは胸がつぶれるくらいつらいと同時に、きっといつか地獄にいくだろうなと覚悟して、今日はこれからつづっていきたいと思います。

「凶暴代議士」と当時のわたしは、見捨てられスイッチの入り方がすごく似ていました。「叩くのはやめて」と自分の身を守るために当然にすぎない判断をする秘書にたいして、「お前はいつも叩いている、わたしの心を」という彼女のセリフは、生音声のなかでも、もっともわたしの心をぐっと抉ってきました。

これももちろんですが、代議士のことはあの録音テープ以上のことは知らないし、自分と重ねて彼女に同情したり共感したり弁護したり、ましてや誹謗中傷を拡散する目的で、このブログをやっているわけではないので誤解しないでくださいね(しいてなにか伝えたいことがあるとしたら、早く病院行って、ですね)。

いま思えば、あのとき溺れていた場所は、水深はそんなに深くはなかったのかもしれないし、わりと深かったのかもしれない。いずれにしても、いま思うのは、浅瀬でも溺れてじたばたしたり、泣きわめいたり、死んだりしてしまう人間もいる、ということです。

溺れている人間にとって、それが仮に浅瀬でも、死にそうでわらをもつかみたい必死な人間にとって、水の深さは関係ありません。「叩くのはやめて」と言われることは、見当違いもはなはだしい、溺れている人間を見捨てる行為に、溺れている人にとっては映ります。

そればかりか、見捨てられ不安を強化させる地雷ワードを、あの秘書はふんでしまっているのですが、一方で、溺れていない人間がそんなばかげた話に気づくことなんて、まずありえないでしょう。

だけども、そんな積もり積もった“普通”とのすれちがいが、溺れている人間にとっては<お前らは溺れている人間を安全な場所から見下ろして、わたしの心を叩き、迫害し、嘲笑っている>というロジックへと発展していくんだと思います。

けれども、そんな当事者にとっては理にかなった当たり前のロジックを言えば言うほど、誰からも理解されなくなって周りを遠ざけていきます。

見捨てられ不安が大爆発していた当時のわたしは、まさにそんなロジックによって、大切な人を罵り、傷つけ、すり減らせ、すべての人間関係を焼き尽くしていきました。

たとえばあるパートナーには、理解が足りないだの、わたしはお前の正義感を満たすための都合のいい道具じゃないなどと言いがかりをつけては、刃物を振り回したり、家中にある食器や調味料、家具、パソコン、電話、ファックスをすべて投げつけました。消火器も噴射させました。

別のパートナーは、そういうことがあるたびに、散らかったガラスの破片を、黙々とほうきではいて掃除する人でした。傷んだ床や壁を治すため、新しい壁紙など買ってきては黙々とこまめに修理し、なにごともなかったかのように振る舞う人でした。

彼にとって、黙々と処理することが、わたしをもっとも穏便に、身の安全を保ちながら、遠ざける方法だと最終的には判断されたのだとわたしは感じました。そしてわたしは、彼の前から姿を消しました。

これだけではすまされない話はたくさんあって、わたしは確実に地獄にいくと思うのだけど、そんなふうにわたしは、わたしに関わろうとしてくれる人たちの、体だけでなく、心にも傷を負わせたのです。これは立派な犯罪です。

同時に、思うのです。わたしはそれと同じ犯罪行為を母から受けて、母を憎み、軽蔑し、こんな人間になるまいと決意して、縁まで切ったはずなんです。なのになんで同じことをしているのだろうかと。

鏡を見れば母とは顔もそっくりで、ほんとうにわたしは、あの人の生まれ変わりのようになってしまった。そのたびにわたしはそんなふうになってしまった自分を呪い、自分を損なう行為を繰り返してきました。

だけど最近、そんなわたしに、わずかながら変化がおとずれました。

数年前から、母がわたしを生んだ年齢を追い越し始め、いまは、わたしが4歳のときの母の年齢になろうとしています。そうやって重ね合わせられる年齢になってきて、徐々にですが、最後に娘にすら捨てられた憐れな母もあのときわたしと似たような思いをかかえてしんどかったんじゃないかなあというふうに、いやでも生々しく考えてみる機会が増えました。

とはいえ、自分の子はもちろん、だれの体や心であっても他人によって損なわれることは、あってはならないことだし、そこは永遠に揺らぐことはありません。

母をゆるすというまでには、まだ程遠い道のりだけど、わたしにとって、母は母です。犯罪者を恨み続けて生きていくことは、犯罪者の自分も否定しながら生きていくことになってしまう。そんな悲しいことはないとも思うのです。

「凶暴代議士」の、まるで首を絞められたニワトリのつぶれたような叫び声を聞きながら、これはわたしの声なのか、なつかしい母の声なのかわからなくなっている自分がいました。

だけど、そんなゴシップ的な音声テープからでさえ、わたしはいくつになっても、母をゆるすための手がかりを、目ざとく探しているんだなあということにも、気づかされるのです。

浅瀬で溺れる人間を、なに浅瀬で溺れてるんだよと蹴飛ばして突き放すことで、わたしは母を憎もうとしました。だけど、いま振り返れば、そうすることで、浅瀬でじたばたするみっともない自分がいつまでも肯定できなくて、憎むことで、さらに苦しめていたのだと思います。そして、罪のない人間にまで一緒に溺れるよう巻き込もうとするという、地獄に落ちるにふさわしい悪事をはかったのであります。

この世でもっとも軽蔑していた、浅瀬でさえ、わめきながら溺れてしまうはた迷惑な人間は、まさに自分自身であったということ。それをまず受け入れることが、人間というものすべてにおける愚かさや弱さをも、受け入れられるようになる、まずは第一歩になるような気がするのです。

そしてそれが、地獄に行く人間にとっての、「生きる」という終身刑なんじゃないかと思います。 

プラマイゼロは世界をすくう

きょうは暑いです。ネットを見てると、不思議ですね。みんな河原でバーベキューしてじゅーじゅー肉を焼いてるんじゃないかと思えてきます。世界のなかで入院して取り残されているのはわたしだけなんじゃないか……みたいな。

たぶん、仕事でひーひー言っているときは言ってるときで、こんな天気がいい日なのに、ひーひー言っているのは自分だけで、みんなが銀座のスタバのテラスで、チャイティーラテのアイスを飲んでサボっているように、見えてしまうのでした。

ようするに、なにが言いたいかというと、いつも「だるい」「だるい」とつぶやいている人ほどじつはガリ勉だったし、「働きたくない」「働きたくない」とつぶやいている人ほど、じつはかげで上司の靴をぺろぺろ舐めてたり、大量のヘドロを飲んで窒息しそうになっていたりしたし、「暇だ」「暇だ」と言っている店のオーナーほどけっこうもうかっていたし、「頑張りたくない」「頑張りたくない」とつぶやいてる人ほど、ほんとはすごいがんばりやで、がんばってるアピールしてる人以上に高いハードルを越えるための見えない努力をしている、かもしれないし、してないかもしれない、ということです。

なんとなーくコインランドリーの画像をググってたら、たまたま外国のおしゃれなのが出てきた。コインランドリーの写真って、賃貸物件の間取りみたく、見てるだけで夢がふくらんでそそられる。

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一週間分のどっさりたまった洗濯物をコインランドリーに持っていって、待ち時間、コーヒー飲んだり、ぼーっとしたり、文庫本読みながらうたた寝しちゃったり……っていう夢のような最高な休日を、無職さんは妄想したのでした。

このためだけに、洗濯物たまるくらい、がっつり働いてやろうじゃないかと、無職だからこそできる妄想を、世界のコインランドリーの画像をググってするんです。入園料ゼロ円の遊びです。

よくもわるくも、相殺してプラマイゼロの地点に立つこれらのかんじ。コインランドリーだねぇ。

ネットを眺めてて思うのは、世の中の争いごとって、たいていは、なにかをプラスプラスしすぎたり、マイナスマイナスしすぎることで、起こっているような気がします。

リアルな世界でも、ネットの世界でも、プラスプラスしたり、マイナスマイナスしたりするのに疲れたら、相殺してプラマイゼロにするかんじが、わたしにとっては肌触りのいい部屋着みたいでやっぱりいちばんくつろげます。

プラマイゼロは、世界を救う。もちろん、バランス加減は好き好きでしょうけど、少なくともわたしはそう信じてます。だからきょうも、口から出まかせをつぶやこうと思います。

あーきょうも、すごくだるくてめんどくさくてかったるくて働きたくなくて超ひまだよー!

やっぱりわたしは「無職の子」

世の中には「医者の子」「貧しい農家の子」「ごく普通のサラリーマンの子」とかいろんな親のもとに生まれた子どもがいますが、なにを隠そう、わたしは「無職の子」です。

「無職の子」だということをはじめて意識させられたのは、中学校のときでした。

わたしはお受験をして、某国立大学教育学部附属の中学校に入りました。そこは地域の名士のお坊っちゃまお嬢様が一同に集まる小中一貫校で、小中合同の「保護者名簿」というのが毎年、伝統的に配られることになっていました。

わたしは、その名簿が配られる5月が近づいてくると、舌噛んで死んじゃいたいような憂鬱な気分になりました。

立派な冊子となっているその名簿には、まずクラス別の出席番号順に、地域で名高いお父様の名前がずらーっと並んでいます。ですが、わたしの保護者欄だけは女の名前、ようするに母親ということで、まず母子家庭であるということを、小中学校の全校生徒とその保護者中にお知らせすることになります。

それだけならまだ序の口です。わたしを舌噛んで死んじゃいたくらいにさせる、きわめつけは「職業欄」の存在です。

名簿作成に取りかかる新学期に入ると、担任の先生から家に電話がかかってくるんです。「例の名簿の職業欄ですが、『無職』と書きますか?それとも空欄にしておきますか?」と。母は「空欄でお願いします」と話すのだけど、わたしはそのやりとりを聞きながら毎回、舌噛んで死んじゃいたいと思うくらい、顔から火が出るくらい恥ずかしくなりました。

そして、5月になると名簿が出来上がり、全校中に配られることとなります。わたしは前の席から順に回されてくる出来たてほやほやな名簿を、後ろの席の子に回しながら、そこでも舌噛んで死んじゃいたくなりながら、どうかみんなわたしの空欄に気づかないようにページをめくらないでくださいとお祈りするばかりでした。

ですが、毎回かならずふざけた男子というのがいて「あれ、ひとりだけ職業欄が空欄の人がいる」と言って、クラス内がざわざわしてくるんです。そりゃ、ひとりだけ空欄だから、目立たないはずがない。

そこで、学級委員タイプの女子が「ちょっと男子、そういうこと言うのやめなよ」と諭したり、担任の先生によっては「静かにしなさい。世の中にはいろんな家庭の事情があるんだ」と説教したりするのですが、そういうこと言われると、もっと舌噛んで死んじゃいたくなるんだよと思いながら、わたしは顔から火が出るような恥ずかしさでうつむいているのがやっとでした。

先述したように、その田舎では名がとおる父親のお坊っちゃまお嬢様たちが通う学校なので、議員や大学教授、医者のような「センセイ」や、地域では有名な会社の社長といった華やかな職業が大半をしめていました。

そして、華やかな職業であるほど、そこまで聞いてないっつーのに、たとえば医師の方の職業欄だと、勤務先の病院名を知らしめるだけで十分なところを、みなさんたとえば、どこそこ病院の第1外科でございますとか、どこそこ病院どこそこ医局の助教授でございますとか、なんちゃら大学のなんちゃら研究室の特任研究員でございますなど、役職までご丁寧にお書きになる傾向がありました。

そうした名簿の情報をもとに、当時クラスでは「あら、⚪︎⚪︎先生のお坊っちゃま」「あら、⚪︎⚪︎内科医院のお嬢様 、ごきげんよう」とあいさつし合う遊びがはやっていました。当然、無職の子だったわたしは、同級生とはうまく交流できず、浮いてしまいました。

だからなのか、先生たちはわたしにとてもよく目をかけてくれました。それは無職の子だという哀れみからなのかはわかりませんが、先生からの評価はとてもよく、テストの成績はよくはなかったけど、甘やかされたばか息子やばか娘たちの素行が悪かったおかげで、内申点はトップクラスでした。

そんななか、忘れもしない出来事がおこりました。3年生のある日、わたしは論文コンクールの大会で入賞して、朝礼で全校生徒の前で表彰されました。朝礼が終了し、表彰状をもってクラスに戻ろうとしたときのことでした。

アムステルダムからの帰国子女だったことから「オランダ」と呼ばれていたクラスメイトが仲間3人くらいを引き連れて、わたしの表彰状と顔を交互ににらみつけながら「母子家庭で無職のくせに」と吐き捨てていったのでした。

ボ、ボ、ボシカテイデ、ム、ム……ムショク……。多感な年頃のわたしは、やっぱりそのときも舌噛んで死んじゃいたいくらい恥ずかしくて、あまりに悔しくて、悲しすぎて、その場に立ち尽くして言葉も出なくなってしまいました。

でもそうやって、何度も舌噛んで死んじゃいたくなって、心の中でたくさん泣きながら、わたしはいつか、「無職の子だけどなにか?」って言えるくらい、強くなっていったのだと思います。

そういえばわたしは、母子家庭で無職の子であることを理由に学校でいじめられていたり孤立していたりしたことを、母には一度も話したことがありませんでした。当時は、母を傷つけたくなかったり、家でタブーな雰囲気を子どもながらに感じ取っていたりしたからだと思っていました。

だけど先月、自分も無職になってみて、それだけが理由じゃなかったのかもしれないと思い始めるようになりました。

というのも、大学を卒業して、体育会系の新聞社に入ったわけですが、新人の頃は先輩たちからよく「お前のそんな働きじゃあ、給料泥棒だな」とか「働かざるもの食うべからず」と言われてたんです。普通はそうした新人への洗礼のような言葉に、心が折れそうになったりするものですが、わたしは、むかつきはしたけど、全然響きませんでした。

そういう“鈍感”なところが、こいつにはなにを言ってもいいんだという印象を与えて、のちのちクラッシャータイプの上司を増長させてしまったこともあったのかなあと思ったります。

ですが、実のところは、子どもは親の背中をみて育つというけど、まずわたしの母は無職なのに、働かなくても朝昼晩3食ふつうに食べて暮らしていたという背中を見て育ちました。なので、「働かざるもの食うべからず」という価値観を絶対だと受け入れてしまうことは、親の年金を食いつぶしてひきこもって母親であることすら放棄したろくてもない人だと思いながらも、じっさい働かなくても食べていた母を否定することになってしまい、娘としては引き裂かれるものがありました。

また、無職の子なので、たとえば実家の農業を継がなきゃと長男が責任を感じるように、わたしも家業を継ぐってわけじゃないけれど、わたしには無職のDNAが埋め込まれていると考えるのが、自然なのかなあとも思います。なので、「給料泥棒」と言われても、しょげるばかりか「泥棒なんて言われるのは人聞きが悪いので、いっそきれいさっぱりあなたに給料をお返ししますよ」くらいに、けんかを返してあげました。

いま思えば、立派に働くお父さんの背中を見て育った当時の教育担当の体育会系先輩としては、新人に、そこで落ち込ませて、飲ませて、師弟関係を深めて、奮起してもらいたいと思ってたんだなと思うのですが、わたしには、体育会系のかわいがりの言葉は、先輩にとってはのれんに腕押しでした。

いよいよわたしは無職になったわけですが、親に申し訳ないとかは思いません。医者のおやじの背中を追いかけて、お医者さんになると、やっぱり親譲りだねえと言われるように、わたしは母親の背中を追ったわけではないけれど、このたびくしくも同じ無職になって、(母に対しては何度もここで書いているように、憎しみしかないわけですが)、そういう点では、やっぱりわたしはママの子だと思ってます。

 

きになるあのこへ

きになるあのこは、猫みたいな子だった。なにをしたいかというわけでもなく、勝手気ままにわたしの部屋に泊まりにきては、すうっと気配を消していくものだから、何日かたって、ああ、あのこは帰ったんだっけと思わせられた。

夜、わたしがだんだん眠くなってくると、あのこもおなじようにあくびをして、気づけば一緒のタイミングに布団にはいって、どっちが先かわからないくらい、すうっと眠りについた。朝もわたしが目をぱちっと開けると、あのこはわたしのそのわずかな気配を感じ取るようで、ぱちっと目を開けておはよう、って言った。

そして、起き抜けに淹れるいつものハーブティーが十分に蒸らされるころ、かならずあのこはソファにちょこんとすわっていて、並んでそれをゆっくりと時間をかけてすする。そんなおなじ朝を、あのこと何度もむかえた。

あのこといると、子どものころ「おにごっこする人この指とまれ」と誰かが人差し指をかかげると、わたしもーぼくもーとわーっと集まってきて、そうやってつぎつぎと遊びが生み出されていったのを思い出す。

あのこに感じたわたしの第一印象は、まるでそんな「この指とまれ」と言う誰かやなにかを、なぜかつねに生き急ぎながら探し求めているような女子大生だった。それも「受け身」とも「意識高い系」にも当てはまらない、なにかとても切実で、強迫的な理由にかられているかのように。

基本的に、わたしたちは大人になっても、この指にとまったりとまられたりの「遊び」を、くりかえしながら生きているように思う。

おなじ「遊び」でも、大人になれば、おにごっこのようにすべてシンプルで楽しいわけにはいかなくなって、めんどくさい社交や利害、お金、持ちつ持たれつの大人ルールが入り込んではくるけれど、むつかしさの皮を全部はいでしまえば、この指にとまったりとまられたりのヴァリエーションで大半のものごとは動いているんじゃないかなと思う。

だけどあのこにそういう人間社会のルールを求めるのは、酷なことだなと思った。あのこは、自分の「この指」はかならず差し出さないかわりに、いつ誰が出すかわからない、そんな不確実な「この指」だけを、いつも物欲しげに眺めることに徹していた。あえて自分を猫みたいな存在にしてしまうことで、かろうじて人間社会と交流するチャンネルを保ってたのかもしれない。

あのこと一緒にいながら、一緒にいるわけではないとわたしは感じていた。あのこは、いまここに身を置きながら、いつかわからない未来の「この指」をつかんだ自分の風景を、ひとりぼっちで思い描いているようだった。わたしという、いまここの「この指」をぎゅっとつかむことで、かろうじて。

猫は死ぬとき、飼い主に姿を見せたがらなくなるという。あのこはほんとうに猫に生まれてこればよかったと何度も思った。うつや摂食障害で苦しんでるほんとうの姿のかけらひとつたりとも、わたしには絶対に見せることはなかった。猫に擬態していられるわたしの家にいるときだけ、あのこは普通のルールから一時的に逃れることができる。だけど、この星にいるわたしは、かかわればかかわるほど、あのこにとっての一時的な逃げ場にしかなってあげられなかった。

あのこは知っているだろうか。どこの指に止まろうか、あるいは止まらなきゃいけないと、ハムスターのようにぐるぐる回転して空回りしているときよりも、誰の猫でもなく、一匹の猫として歩いているときの何気ない瞬間が、もっとも輝いているということに。

あのこは、それにいつかきっと気づく。というか、すでに気づいているからこそ、猫に逃げた嫌悪に苦しみ、そしてふたたび猫へと逃げて楽になることで、あのこはかろうじて人間とかかわるという矛盾したことをしようとしている。

出会ったとき、矛盾するようだけどわたしは、あのこは一匹の気高い猫になりたい子なんだなと思った。出会った一瞬がさよならを意味するような出会いだった。なぜならあなたはもうすでに、堂々と野原をかけぬけられる猫になっているのだから。

 

 

30年ぶりに姿を現した父との出会い、そして別れ(5)

孫が抱けないまま死んでいくのはみじめだ

ティールームを出て、私は父を仙台駅まで歩いて見送ることにした。見送れば、こいつは片付く、だからあと少しの辛抱だ、と。すり減っていく魂がアーケードのアスファルトに溶かされてへろへろになりそうな自分を、へんなふうに励ました。

もちろん唯一無二の父のはずなのに、なんでこんな気持ちを持っちゃうんだろう?もっとやさしくできればいいのにといった罪悪感は大いにあった。けれどもそれ以上に、いきなり30年ぶりに「ぼくはみーしぇるちゃんのおしめもかえたお父さんだに(遠州弁)」とひょっこり現れて、なれなれしくしてくるズレたカツラをした強烈な口臭おじさんを、どう受け止めていいかわからず混乱する気持ちの方が強かった。

それにこれまで、母も母だと思っていたけど、母が父のどんなところが嫌いなのかというのは娘として手に取るように分かってしまった。私は父が仮に学校のクラスメイトになったとして、一生かけても好きになりたくないたぐいの人だと思った。一方、そんな人とどうして母は結婚して、子供まで作ろうと思ったのかも分からなかった。父も、そんな合わない母をどうして見抜けなかったのか疑問が残った。そして、それらを勘案した結論が、母も母なら、父も父だということ。そしてその両親のもとに生まれたらその子もその子だ、と考えるのが、もっとも自然な流れなのではないかと、私は思った。

そう思って歩いているとき、父がぽろっと言った。「お父さんね、正直ね、仙台駅でみーしぇるさんと再会したとき、とってもがっかりした」。なんで?と聞くと「もっとテレビドラマみたく、むせび泣きながら親子で抱き合って、お互い『やっと会えたね』っていう感動シーンだとばかり思っていたから」。だから、何度も繰り返すけどと言って私は、混乱しているいま正直な気持ちを改めて話した。とても疲れていた。

父はそんな私の気持ちにおかまいなしに話を続けた。「で、なんで会ったかというと、ぼくも60歳を過ぎて、老い先はそう長くはない年齢になってきた。早くぼくに孫を抱かせてほしいんだ。それがこの年になって、会っておかなければと思ったきっかけだ」

その最後のセリフを聞いて、私は父と再会した瞬間から、なぜ自分の体がこう鉛のようにどんどん重たくなっていくのかという理由が、ストンと落ちた気がした。この人は、30年ぶりで初対面に等しい相手にどう接していいか混乱しているという、相手の気持ちや都合なんかどうでもいいんだということ。

それよりも、還暦をすぎて自分の老い先が長くないと感じ始め、孫を抱くことで空虚な自分を満たしにここにやって来たんだ。孫が抱けないまま死んでいく自分はみじめだと、勝手に自分を哀れんで。

初めからこの人にとって、私のもとを去ったときから、私はすでにこの人の中にはいないものになっていて、自分を見つめに、仙台まではるばるやってきたのだ。それは同時に、私も私で、とっくにこの人は、私の中にいるようで、悲しいけれどとっくにいないんだという事実を突きつけさせた。

ぼけぼけぼけぼけと言ってみるものの……

さすがに「孫を抱かせてほしい」という言葉まで聞いてしまったからには、私はこれまでの数時間、いや30年間ずっとおし殺していたすべての気持ちを、仙台の目抜き通りのまんなかで、ぶちまけることとなった。「30年ぶりにひょっこり来て、孫を抱かせてほしいなんてお前が言える口なのかぼけ。ずーずーしいわ」ということからはじまり、なにからなにまで出てきた。

てめーががいなくなったせいで、私がどれだけ母親からひどい仕打ちを受けて、私はてめーをどれだけ恨んでいて、役立たずの用なしだと思ってきたか。これまで一度も助けにきてくれたこともなくて、孫を抱かせろってどういうことだよ。なにがおしめをかえたお父さんだよ。ずっと心配してたっていうなら、一度くらい助けにきたのか、養育費払えないのに新しい家族は養えてるってどういうことだよ、ぼけ。金くらい当然用意してきてるんだろうな?エェ?自分の葬式代しかもう金がないだと?息子を私立の大学にこれから入れなきゃいけないから金がかかるだと?エェ?父親のいいとこだけかっさらってくんじゃないよ、エェ?おかげで母は外に出せないくらい頭がおかしくなってしまったじゃないか。どうしてくれるんだよ、エェ?

だけど、自分でも言いながら気づいてしまったことだけど、どれだけ怒ろうと思っても、本気で自分が怒るときのきっと何千分の1のエネルギーも、この人にはわいてこなかった。たった数時間だけど、すでに喪失されている存在同士がいくら話したところで、お互いの心にはなにも入ってくるものがないということに気づかされた、それはそれである意味、有意義な時間でもあった。

ねえママ?聞いてください

唯一父に伝わったのは、母がおかしくなったことで、いまの新しい自分の家族に危害が及ぶかもしれないという危機感だった。父は「ぼくの住所や電話番号は彼女(母)には絶対にばれないようにしてね。家庭が襲われたらたまったもんじゃないから」と言った。<ねえママ?、今日私は、あれほど私に会うことを許してくれなかったあなたの大嫌いなお父さんに、こっそり会いました。お父さんは私に「みーしぇるちゃん、これからはお父さんって言っていいんだよ。なんでも頼っていいよ」なんて言っておきながら、最後はケツまくってすぐに逃げるような、本当にママの言うとおり、せこい人でした>

母は私の片割れとしての父を憎んで、せめて父はそうではないあたたかい人であってほしいと願っていた。だけど父も父で、私の片割れの母を憎んでいることが分かった。そうなれば子供の心は分裂して引き裂かれることに、小学校の教師を定年まで40年もやっていても、気づかない人がいるということが分かっただけでもよかったのかどうか。

案の定、改札の前で別れ際、「お願いだから、死ぬまでに孫を抱かせてほしい」と父は繰りかえししつこく言った。結局そこがいちばん気がかりだということが分かった。私は心のなかで、そんな両親のもとに育った子供が、結婚とか子供とか作りたいなんて思うわけない……かもしれないこともありえるかもしれないということに、きっと、この人は思いいたることもないんだろうなと思った。なにも学習しないまま、孫が抱けないみじめな自分になるのを哀れんでいる、ただそれだけを思いながら、余生を過ごしていくんだろう。

そして、新幹線の時間が近づいて、別れの握手を、私は相変わらず激しい口臭にまた顔をしかめながら交わした。次会うときは、ブルーレットくらい口の中に入れから出直してこい、って思いながら。そのときおみやげに渡された箱の包装紙を家に帰ってびりびびりにやぶくと、静岡茶の筒が入っていた。チッ、30年が静岡茶の筒かよ、ふざけんな、と思いながら私は迷いなくゴミ箱に投げ捨てた。(仙台編は終了)